東区の古代ロマン
鎮守の森
 この地方に古くから人がすんだ事が、名古屋台地の北のへりにあたる金城中学裏や長久寺や片山神社あたりの貝塚が証明している。弥生末期にようやく水面の後退が始まり、陸地がつながりはじめた古墳時代の中心地は大豪族尾張氏の本拠地大高や熱田、国衙の置かれた稲沢市であった。東区は古代の軍事組織であった物部氏の勢力下にあり物部神社、高牟神社(千種区)、国府宮(稲沢市)の祭神や日本武尊神話に痕跡を残している。
 大化の改新の後、初代尾張国司に少子部連が任命され壬申の乱で活躍している。(橦木町)

山田郡と長母時  天武朝の頃、尾張国は8郡に分かれ、国府は現在の稲沢市におかれました。尾張国の郡名は中嶋、海部、葉栗、丹波、春部、山田、愛智、智多と「和名類聚抄」にあります。山田郡の範囲は、東は三国山、西は名古屋市西区、南は境川、北は玉野川までであった。奈良時代には東大寺の荘園として山田荘が形成されました。南北朝期には、強力な守護土岐頼康が尾張を支配しましたが、その後斯波氏が守護として支配しました。
 長母寺は矢田川南岸の、広い河川敷と木ヶ崎公園の緑につながる景勝の地にある。承久の乱に活躍した山田次郎重忠が治承3年 (1179)、母のために創建。開山堂の無住国師の等身大の木像、無住国師墨跡重文。石井垂穂の狂歌碑もあり、尾張万歳の発祥の地でもある。
 この後、大永四年(1524)に織田大和守と織田弾正忠家(信貞)で、ほぼ上四郡・下四郡の支配体制が続いていくこととなり山田郡は愛知郡・春日井郡に編入されて消滅した。

清洲越しと町割  関ケ原の合戦(1600年)で天下を掌握した徳川家康は,慶長15年(1610年)清洲城主義直のために、名古屋台地に築城を開始し、併せて藩士ばかりでなく、寺社町家も清洲から名古屋へ移動させました。これを『清洲越し』といいます。
 東区の町づくりは、この『清洲越し』による武家屋敷と寺町によって形づくられたものといえます。当時は、城の東側の高台に沿って、東外堀町から山口町にかけて家老の家が建ち並び、その周囲を家臣団が固めていました。そして、その南側の白壁町・主税町・橦木町の一帯は700坪程度の屋敷に300石級の組頭階級が配置され、東にいくに従い屋敷の規模が小さくなり、建中寺の東から南にかけては、現在の百人町・黒門町・筒井周辺は、百人組・黒門組などに属して「組の者」と呼ばれた下級藩士の組屋敷が集中し、百坪以下の住居が軒を並べて(迷路のように作られた道筋の両脇に)続いていた。武家屋敷の町の道路は,外敵に対する防備を考慮して、T字型や交差路の食い違いが多く見られる。この地区には帰化人や多くの文化人が住んだ。
 上・中級家臣と下級家臣の居住地区の境にあたる現在の代官町から葵町に至る六万四千坪の広大な敷地を占めたのが、御下屋敷と呼ばれた尾張藩主の別邸だった。これは延宝七年(1679)、尾張徳川光友の命によって別邸となった。
 『清洲越し』に伴って町ごと移ってきた町には、中市場町(現在泉一丁目)や鍋屋町(現在泉一、二、三丁目)、寺院では長久寺、高岳院などがあります。