町割で町人は、城の正面から南(熱田方面)に幹線道路を造り、碁盤割の街区を定め、ここに多く配した。ある程度職業別に町家を集めている。町人間では清洲越しがステイタス(伝統と格式ある旧家をさす)とされ、詐称する者が多く、保守性を生み出す一因と成っている。
町家:『清洲越し』に伴って筒井町も代官町・鍋屋町も移ってきた。
茶屋四郎次郎
茶屋四郎次郎清延は、近世初頭、朱印船貿易商、糸割符商人として活躍、徳川家康の側近として、政権確立に大きな役割を果たし、京都商人総筆頭として、角倉・後藤とともに京都三長者と称された。新四郎長吉は清延の三男で、天正14年(1586年)上洛した家康に茶屋屋敷ではじめて謁見し、のち当屋敷を譲られた。茶屋の屋号は清延の父の代に足利義輝が訪れたとき、お茶を献じたことから生まれたもの。長吉は慶長19年(1614年)家康の命で、尾張徳川家に仕え、尾州茶屋家を創立、本家同様幕府呉服師を拝命する一方、尾張藩主に近侍し、その召服御用を勤めた。

表向きは京の呉服屋だが、実は中島清延という家康の隠密といわれ、諜報活動に従事した。本能寺の変の際にはいち早く堺にいた家康にこれを報じ、世に言う伊賀越えの際にも私財を散じて土寇から家康を守った。後には朱印船貿易にも従事した。
織田信長公、本能寺にて明智光秀に討たるる!

遊覧中の家康は仰天したことでしょう。全くこの信長という男は、家康の肝を冷やし、運命を変える男でした。かつては桶狭間で今川義元を倒し、そして今度は・・・。
家康は迅速でした。明智の手の者がすでに配置されていると予想されるため、ぐずぐずしていると命が危ないと判断。

京都に行くと称して6月2日に境を出発して三河への最短距離である伊賀越えの間道を行くことにしました。行程は68キロ・・・土民の一揆が随所にありました。
家康は、何度も、「もはやこれまで。腹割さばいて、信長様の後を追う!」とわめいたそうです。時には金を恵んで、時には脅して、やっと三河へ戻ることができました。これには随行の者に、堺の商人茶屋四郎次郎清延がいたからです。
茶屋四郎次郎清延は、織田政権のもとで巨利を得ていた豪商で、江戸幕府でも重要なポストにつくことができました。

慶長19年。家康から清延の三男新四郎長吉に尾張徳川家に属する様申し渡され、尾州茶屋が創設され、側近御用と御服所の経営に従事した。藩から支給された扶持のほか、藩への貸付金の利息が年間500両にのぼり、木曽ヒノキの製材代金3000両などを受領していた。さらに、藩の新田開発への優遇措置から積極的に干拓事業(港区南陽町の茶屋新田)に努めた。

善光寺街道道標
  鍋屋町通りのアーチ東南角に位置し、通常「佐野屋の辻」と云われ京町から鍋屋町に出て北に向きを変え、赤塚、坂上、大曽根そして山田、矢田川、庄内川から勝川、内津峠、多治見、土岐、中山道、大井の宿に通じる。赤塚には大木戸があり名古屋の出入りを見張っており、夜ともなれば灯明、提灯に火をいれ旅人の目印とした。

佐野屋の辻
平田町交差点の南西、鍋屋町筋の辻は「佐野屋の辻」と呼ばれた。酒屋と味噌屋を北西角と東南角で営業。富商であり尾張藩の経済政策に対し意見書を差し出している。

鋳物師頭・水野太郎左衛門と鍋屋町
織田信長から黒印状を与えられ鉄砲製造をはじめとする領内の鋳物鋳造の利権が与えられことに起因する。清洲越しで名古屋城下にきて尾張藩の鋳物師頭に任ぜられ、藩内の総支配となる。水野家の許可無く鋳物の売買は禁止であった。

 善光寺街道
 名古屋の城下町は東海道、中山道といった主要街道から離れた所に有り、これらに通じる脇街道が城下から発していました。東海道に至る熱田口、枇杷島口、中山道に至る志水口、大曽根口、東海道、岡崎へ至る三河口です。
大曽根口を経て中山道へ至るのが善光寺街道または下(した)街道と呼ばれる道で現在の国道19号線に当たります。同じく志水口を出て中山道へ至る木曽街道(本街道)は藩が作った官道で武士はこちらの道を利用していました、現在の国道41号線に相当します。善光寺街道は自由に往来ができ中山道に至る行程が平坦で短いので庶民はこちらの道を利用していましたが、木曽街道(本街道)との荷駄賃など問屋間の紛争は宿駅制度が廃止される明治まで続いたようです。この下街道の起源は定かではありませんが8世紀、9世紀頃の官道「東山道」又はそれ以前の「古東山道」に求めることができるかも知れない。
 善光寺街道(下街道)は中山道大井宿槙ヶ原まで13里20町(53km)。
 名古屋城近く本町通りと伝馬町通り(現名古屋市中区)が交わる札の辻を発し北進、京町(現名古屋市中区)で右折東進、佐野屋の辻(現名古屋市東区)で左折北進、道は名古屋台地を下り大曽根(現名古屋市東区)に至ります。現在でも名古屋市東区相生町には道をかぎ型に曲げ直進を防いだ枡形の防御機構が有ります。
大曽根は城下五つの口の外、大木戸も過ぎ、ここで瀬戸方面へ行く瀬戸街道(水野街道)と別れます。
道はやがて矢田川に突き当たり徒歩にて渡り守山(現名古屋市守山区)へ。矢田川に橋が架かるのは明治まで待たなければなりません。
 守山瀬古村に入ってやがて石山寺の道標、街道沿いに旅籠屋、酒屋、めし屋など有りましたが、一帯は水田地帯だったようです。
矢田川と庄内川に挟まれたこの辺りは低地で、少しの雨でも道は冠水し、現在でも大水から家屋を守るため石垣を積み上げた上に家を建てる水屋造りの家があり、当時の人々の難渋が偲ばれます。
 守山地内約1.5km程行くと直ぐに庄内川へ到着、徒歩または渡しにて勝川(現愛知県春日井市)に至ります。

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