織田信長が清洲を居城としたことから清洲は繁栄を迎え、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康が、海陸の連絡に便利な那古野台地に名古屋城築城を始め、慶長15年(1610)武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までも清洲から移されます、それが通称「清洲越し」。以来、徳川御三家筆頭の城下町として尾張藩の中心となり、江戸・大坂・京につぐ発展をみました。
 江戸時代の都市計画は、基盤割による城下町の「町割」である。城下町の形成は、城を北端として南に逆三角形に延ばして、城郭の南側の部分を「基盤割」の町家としました。そして、警備・防衛上・重要な街道筋に寺院「寺町」を、その周辺に足軽などの下級藩士の屋敷を配置しました。名古屋城の築城が始められ、土族・町民が清洲越しするようになった。1610年頃(慶長15年)の名古屋は、ほんの数ヶ町=堀詰町、納屋町、益尾町、車町、石町で作る町に過ぎなかった。清洲越しが進むと、次第に市街の格好がついて、次のようにおおよそ66の町が誕生した。
 この中に寺院では、長久寺・高岳院などがあります。町家では「本町、鉄砲町、長者町、御園町、七間町、呉服町、伊勢町、大津町、京町、中市場町、鍋屋町、宮町」など、こうして享保(1716〜35)に至るまでに城下町の名古屋が完成されて行った。

街並保存が浸透してマンションの前に黒塀の門構え
豊田佐吉邸

 現在の名古屋市東区に属する名古屋城下の東部は、山口(現在の山口町付近)と呼ばれた地域に当たる。この山口のほぼ中心に位置し、広い境内を持つ建中寺を境とした山口の西部、現在の白壁町・泉町周辺は、一戸平均300から700坪に整然と屋敷割がなされ、藩侯から各家に与えられた家老職や上・中級藩士の屋敷で占められ、その周囲を家臣団が固めていました。これらの屋敷は、屋敷替えの命や、断絶など以外には、代々受け継がれるのが一般的だった。
 この地区に屋敷を構えた人物では、渡辺新左衛門家の他に、幕末維新に活躍した田宮如雲、田中不二麿、名古屋区長吉田禄在、初代名古屋市長中村修などがいた。その他にも、松平忠吉に仕えて日置流射術を伝えた長屋忠左衛門忠久、その弟子で京都三十三間堂の通矢で知られる星野勘左衛門茂則、徳川義直が招聘した中国人学者陳元贇、さらに「鸚鵡籠中記」の著者である朝日文左衛門重章、中村厚斎・直斎父子、直斎の子得斎、厚斎の弟習斎、河村秀穎・秀根兄弟、秀根の子殷根・益根らの学者・文化人達がこの地区に屋敷を与えられた。また、武士に限らず藩に仕えた医師や職人達で代々この土地に住んだものもあった。
 東にいくに従い屋敷の規模が小さくなり、建中寺の南側から東にかけて現在の百人町・黒門町・筒井周辺は、同心の組屋敷、百人組・黒門組などに属して「組の者」と呼ばれた下級藩士の組屋敷が集中し、百坪以下の住居が軒を並べていた。御下屋敷の東南に御手筒組同心屋敷などの下級武士の町が、迷路のように作られた道筋の両脇に続いていた。武家屋敷の町の道路は、外敵に対する防備を考慮して、T字型や交差路の食い違いが多く見られる。
 上・中級家臣と下級家臣の居住地区の境にあたる現在の代官町から葵町に至る六万四千坪の広大な敷地を占めたのが、御下屋敷と呼ばれた尾張藩主の別邸だった。これは延宝七年(1679)、尾張徳川光友の命によって別邸となった。
 この辺りの景観を好んだ尾張徳川光友は元禄八年(1695)三家とその周辺を合わせて十三万坪を超える広大な敷地を隠居所としてそこに住んだ。光友の死後はその居所を残して返還され、五万坪余となったが、享保五年(1720)には再び全て三家の別邸となった。更に維新後は、再び三家から尾張徳川家の所有となり、明治二十七年(1894)尾張徳川十八代義礼夫妻が東京から移住して本邸となった。
金城学院横のムクノキ
東片端・国道41号のクスノキ

徳川美術館
国宝「源氏物語絵巻」を始め、尾張徳川家に伝えられた刀剣、茶道具、工芸品などの数々の重宝「大名道具」一万数千点を収蔵している。名古屋城の茶室、書院、能舞台を復元し、美術品と一体的展示。併設の蓬左文庫は和漢の古典書籍の宝庫である。有料(大人1,200円、高大生700円、小中学生500円)。

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