寺社割は街道筋で重要な地点に配置された。大建築と広大な境内の軍事的意義から城下防衛の意味をもたせたものである。城南は万松寺などの南寺町50ヶ寺(中区大須)、城東は東寺町(東区東桜)40ヶ寺が駿河街道(平針街道)の守りを固めた。
寺町界隈:『清洲越し』に伴って移ってきた寺院では、長久寺、高岳院などがあります。
高岳院山門
平岩親吉は家康の小姓として仕え、人質生活、初陣、歴戦にも随行している。家康の信頼厚く嫡男・信康の守役を任ぜられ、信長の強要によって築山・信康が死に至らしめられたとき、自らの死をもって信康が許されることを請うたが許されなかった。小田原、関ヶ原の戦功から家康の八男仙千代を養子として迎えていたが、早逝。養子・仙千代を葬った教安寺を高岳院と改め、清洲越しで現在地に移る。山門は清洲城黒門を移築したものであったが戦災で焼失。
長久寺の庚申さん
境内にある庚申塔は、江戸時代の比較的初期の物といわれ、高さ70・、幅38・、厚さ21・の塔で、将棋駒形をしており、卍、幔幕、明、六臂、青面金剛、天邪鬼、三猿それぞれ沈彫り、高肉彫りされている。象の両側に『二世安楽子孫武運長久』・『千時寛文八年戌申霜月二十五日・・・武州上之町願主敬白』と刻まれている。武蔵国の武家が、寛文八年(1668)寄進したもので、信仰の盛んであった、江戸時代初期のものとして貴重に扱われているが、どうしてここに安置してあるのかは判っていない。又表門は慶年15年(1610)、清州から移された医薬門の形式もった総門である。

以前の境内の一部であった現・金城学院中学校裏に名古屋台地最北の縄文貝塚があった。

へちま薬師(東充寺)
仏法山。京都の粟生光明寺派で、慶長の遷府(清須越)の際、この地に移る。疝気(せんき)を病む人に霊験があるといわれ、へちまを供えて平癒を祈る民間信仰で名高い。

建中寺
建中寺
二代藩主光友が藩祖義直を弔うため慶安四年(1651)に創建。以後、尾張藩の菩提寺となる。城下一の大寺院であり、広大な寺域に歴代藩主の霊廟がある。天明五年の大火で炎上、同七年再建。

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