千種区の城山・覚王山地区は、起伏に富んだ地形を有し、季節に応じて桜や紅葉が楽しめるなど豊かな自然に恵まれるとともに、日泰寺や末盛城趾・城山八幡宮といった貴重な文化資源が豊富にあります。尚、この地からは良い黄土を産し、末森窯跡も発見されているところから、須恵(陶)器を産出していたと伝えられる。
末盛城趾・城山八幡社
 この末森城は天文16年(1548)織田信長公の父、織田備後守信秀公が東山丘陵の末端に位置するこの地に築城し古渡城から移り住んだが、この地は頗る要害の地で三河方面よりの松平(清康)・今川(義元)等への守りとし、弟信光の守山城との線を連ねて尾張に於ける東方の固めとしたものである。
 信秀公は尾張の覇者として次々に近隣を従えていったが、天文18年大志を抱きながら業半ばにして病みこの地において卒去した。信秀公の死により、信長公が那古野城に入り、末森城には信長公の弟の備前守(勘十郎)信行公が入った。後、信行公は信長公と争い、永禄元年(1558)清須城にて信長公に誘殺された。以来末森城には主なく、ついに廃城となったという。城址の西北山麓に信秀公の廟山があったが、現在は信行公が父信秀公の菩堤を弔う為建立した桃巌寺(千種区四谷通)に移され信行公とともに祀られている。

昭和塾堂
昭和3年に若者の修練場として建設されました。戦時中は東海軍司令部として使用され、現在は愛知学院大学の歯学部研究棟として現役である。
昭和塾堂の勇姿
当日は境内でフリーマーケットが開かれていた