これより先、信秀殿の死後すかさず今川方に寝返った鳴海城の山口親子は駿河に召し出され、切腹させられていた。この度義元は鳴海に四万の大軍を置きながら、わずか二千の信長公に討たれてしまったが、これも山口親子を殺害した因果というものであろう。

 一方今川方にも勇士がいた。駿河の士でかねて義元に目をかけられていた山田新右衛門という者は、義元討死と聞くや馬首を返して織田勢に突入し、戦死を遂げた。また二俣城主の松井五八郎は、その一党二百人とともに戦場に枕を並べて討死した。

 河内を占拠していた服部左京助は義元に呼応して大高の沿岸まで兵船を出し、熱田の町を焼き討ちしようとしたが、住民の反抗にあって数十人を討たれ成果なく河内へ引き返した。

 信長公は馬先に義元の首を下げて日付の変わらぬうちに清洲に帰着し、翌日になって首実検を行った。首数は三千余にのぼった。義元の同朋をつとめていた者が下方九郎右衛門に捕らえられ、引き出されてきた。同朋は義元をはじめ見知った首についてその姓名を書きつけてまわった。信長公はこの同朋に褒美を与え、僧を伴わせて義元の首を駿河に届けさせた。
 清洲から熱田へ向かう街道筋の南須賀には義元塚が築かれ、供養のため千部経が行われ大卒塔婆が立てられた。義元の佩いていた左文字の銘刀は信長公の愛用するところとなった。

義元左文字:
「三好宗三から武田信虎。信虎の娘が今川義元へ嫁ぐ際に祝いに送られるが、1560年に義元が桶狭間で織田信長に討たれ、戦利品として信長が所持。その時に『永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長』と象眼でほどこした。その後本能寺で信長が討たれると、焼跡から秀吉が探し出し所持し、秀頼に。1601年に秀頼から徳川家康へ送られる。その後天明の大火で焼け、再刃され1788年に信長を祀る建勲神社へ奉納され現在に至る。

 鳴海城には岡部五郎兵衛元信が篭っていたが、降伏して退去した。前後して大高城・沓懸城・池鯉鮒城・重原城も開城した。

今川治部大輔駿河守義元公
豊明市高徳院の義元公の本陣跡と桶狭間戦死者の供養碑
戦死者を祀った戦人塚

 桶狭間で首をとられた義元公の胴体は、家臣に担がれて撤退。執拗な信長勢の追跡に力つき、豊川一色城内の大聖寺境内に葬られた。

25、信行誅殺  家康公岡崎の御城へ御引取りの事

 桶狭間の戦の後、徳川家康は岡崎城に入っていた。信長公は義元の死に乗じて三河に進攻し、梅が坪城を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、のち城兵が打って出て激しい白兵戦となった。この戦で前野長兵衛が討死した。また平井久右衛門という者はその強弓を敵味方から賞賛され、信長公から褒美を与えられた。信長公はさらに伊保城・八草城へも押し寄せ、田畑薙ぎをおこなった。

 さて義元の死以前のことである。信長公の御舎弟勘十郎信行殿は竜泉寺に築城し、上郡岩倉の織田伊勢守信安と結び、信長公の直轄領である篠木三郷の押領をもくろんでいだ。

 そのような中、信行殿の家中に津々木蔵人という若衆がいた。信行殿の覚えめでたく、家中の面立った侍はみな津々木に付けられた。自然津々木は驕り、老臣の柴田勝家を軽んじるようになった。柴田はこれに憤慨して信長公の下へ奔り、信行殿が再度の謀反を企てている旨を密告した。
 信長公はこの日から病の体をよそおい、表へ一切出なくなった。信行殿は、御袋様や柴田から「御兄弟の間柄です。御見舞いに行かれませ」と勧められ、弘治3(1557)年11月2日、清洲へ見舞いに赴いた。そして清洲城北矢倉天主次の間において殺害されてしまった。この時の功績があって、柴田はのち信長公から越前国を与えられるまでに出頭したのであった。

岡崎城の家康公像