見晴台遺跡 区の東部にある笠寺台地は古代から開け、縄文・弥生・古墳時代の遺跡も多く、遺物も多数発掘されており、昭和54年10月に笠寺公園の中に建設された。見晴台遺跡や市内の他の遺跡の発掘調査を行い、調査の結果や出土したものを展示している。映画会や講演会なども定期的にひらかれており遺跡の保存と活用の場として重要な役割を負っている。また、「遺構観察舎」には竪穴式住居が復元されている。

桜田勝景跡 今なお、すばらしい眺めの見晴台を経て、北の桜田勝景跡へと進む。桜八幡社の境内に立って、古代の年魚市潟や万葉人に想いをはせる…「桜田へ田鶴鳴き渡るあゆち潟しほひにけらし田鶴鳴き渡る」さらに北へと進むと古墳に至る。美しい自然と歴史に恵まれたこの地を散策する。村上社の境内には、幹回り10.8m、樹高20mにおよぶ巨大なクスノキがある。

旧東海道を歩く 市内唯一の一里塚を残して、南北に伸びる東海道。雨ざらしの観音様に笠をかぶせた娘・玉照姫、その故事にちなむ笠寺観音から桃山様式を今に伝える富部神社へと進む。古道・鎌倉街道、行きかう白帆を望んだ年魚市潟勝景跡、そして戦国の城跡へ時代の流れを追ってめぐる。

鎌倉街道 中世において鎌倉から関東諸国をとおり信濃や越後、そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、 鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道である。

塩付街道 戦国時代が終わったころから星崎〜呼続浜一帯に広大な塩浜が開拓され、ここで生産された塩は「前浜塩」と呼ばれていた。星崎七ヵ村の寛永年間(1661〜1673)の塩浜面積は約90ヘクタールあったといわれている。この前浜塩は塩付街道を通って信州などに運んでいた。
鳥栖城跡と考えられる成道寺、周辺には古墳が神社として残る神明社、八剱社がある。

南区の古代ロマン 星崎 愛知郡千竈郷(ちかま)、当時この地に上知我麻、下知 我麻神社があり、この知我麻(ちかま)を千竈にした。現・星宮神社。知我麻神社の乎止与命は、景行天皇(104〜123年)のとき,大和国高尾張 邑(奈良県)から来て,尾張の国を造った人である。