旧東海道を歩く 旧東海道の笠寺を東南に下り、天白川を渡り南へ歩くと東海道名所絵図にもある千鳥塚、丹下の常夜燈が迎えてくれる鳴海の町だ。東海道五十三次の宿場町として発展した鳴海の町並みは、旧東海道をはさんで、南に扇川、北の丘陵地帯に史跡や寺社があり、今も昔の風情を残している。左京山を過ぎるとやがて有松の街並。有松は旧東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿との間に位置し、茶屋集落(間の宿)として有松絞とともに発展したところであり、今も昔のたたずまいを残している。織田信長の全国区進出のターニングポイントとなった桶狭間とは目と鼻の位置である。

検証 信長公記
桶狭間合戦
戦国の頃、大名達は互いに全国統一を目指し、しのぎを削っていた。駿河遠江三河の今川は関東の北条、甲斐の武田と縁戚を結び背後を固め、尾張制圧のため永禄3年(1560年)5月12日に駿府を出発した。今川義元は、約二万五千人の軍勢で、17日に岡崎、決戦前夜18日に沓掛城に入り、19日の進路を大高城に向かう情報を得た信長は、5月19日未明清洲城出陣、熱田神宮に戦勝祈願の参拝をし、鳴海の善照寺砦から太子ヶ根まで進行し待機。軍勢は三千人ほどになっていた。
義元が、田楽狭間の松林に昼食をとる情報を得た信長は、天候の急変に乗じ、山中を行軍し、一挙に義元の本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、義元の弱ったところを毛利新助が首を取った。要した時間は、2時間という一瞬の戦いであった。
この戦いは、戦国時代の日本に、織田信長の天下布武、豊臣秀吉の天下統一という形でつながり、ひいては徳川幕府の三百年の基盤を確保したともいえよう。

緑区の歴史ロマン
氷上の森
氷上姉子神社:日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)をお祀りするこの社は、尾張氏の旧里である緑区大高町火上山に鎮座しています。この地は昔、火上の里とよばれていましたが、永徳3年(1382)、この社が火災にあったので火の字をきらって氷上とし、火高を大高にあらためたとされています。 日本武尊の死後、火上の里に留め置かれた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を、かねて一族が祭祀を行う場所としていた吾湯市の熱田にお祀りしました。

滝ノ水公園 360度パノラマの素晴しい眺望を誇る新名所でしょう。