「鬼頭」姓のルーツは源為朝
 為朝は幼い時より剛勇の聞こえ高く、特に弓矢の名手として知られる。十三歳の時、父為義の怒りを買い、九州豊後へ流されている。しかし、その後九州を平定、鎮西八郎為朝と称し大宰府を中心に勢力を張った。
保元元年(1156)皇位継承を巡る「保元の乱」に加わり破れ、伊豆大島に流される。が、ここでも八丈島ほか周辺の島を従えるまでになったが、嘉応二年(1170)狩野茂光の追討軍に攻められ、さすがに自害している。

中区の闇之森八幡社の社伝では、「島に生まれた為朝の子が家人の手引きで島を脱出、尾張国愛知郡古渡に来たり。」とされている。境内には「尾頭塚」と呼ばれる碑がある。これは「為朝塚」とも言われ、「鎧塚」もかっては為朝愛用の甲冑を埋めたとされている。
 為朝の子とされる尾頭次郎義次も幼い頃から豪腕で、産まれた時に蛇が首に巻きつき、頭と尾を後ろに垂れていたという日本霊異記の道場法師にちなみ「尾頭」姓を名乗った。当初は「おがしら」と呼び、やがて「おとう」となった。古渡橋から400メートル位の尾頭橋は佐屋街道の起点でもある。また、源氏の御曹司・頼朝は古渡から1Km程南の熱田・誓願寺で産まれている。これは母が父・義朝の正室であり、熱田大宮司・千秋氏の出身であったからである。

闇之森八幡社の為朝塚と鎧塚
源頼朝生誕地・熱田区誓願寺跡

 さて、成長した義次の豪傑ぶりは都にまで聞こえ、当時、紀州「鬼党」を称する悪党集団があり、土御門天皇は義次に討伐を命じられた。これは共倒れを狙った策略であったといわれる。義次は喜び勇んで勅命を遂行し見事「鬼党」を退治し、その首領の首を持ち帰った。恩賞として古渡の地を安堵され、鬼の首を討ち取ったことから「鬼頭」の姓を賜った。
 この義次は、元興寺に七堂伽藍を造営したが、時代が下がり、信長の父・織田信秀が古渡城を築く際、礎石を持ち去っている。寺はその後、牛立村に移転、尾頭願興寺として現在もある。

道場法師・鬼頭義次ゆかりの元興寺跡
中区東別院内の古渡城跡

 戦国末期、子孫の鬼頭匠内義直は信長の子・信雄に仕えていたが、信雄が秀吉に追放されると八田村に居を構え、鬼頭家の菩提寺の烏森禅養寺を再興し武士を捨てた。

現・烏森天神社と禅養寺


江戸時代にはいると、義次から22代目の景義が産まれている。鬼頭吉兵衛景義は新田開発を思い立ち、寛永元年(1631)から明暦三年(1657)までの26年間に、尾張の海東、海西、愛知、知多、春日井の五郡と美濃の安八郡にわたり、二十七ヶ所およそ三千八百町歩、二万二千石の新田を開発している。こうした功績が高く評価され藩主から苗字帯刀を許された。灌漑用の木津用水も萱津用水も景義が資材を投じて掘削したものです。景義は福田新田(港区南陽町)を開拓すると、この地に住居を移した。また、春日井にあった廃寺を持ってきて再興、今も残る「空雲寺」である。

景義の子孫は勘兵衛を名乗り、屋敷は「かんべいの森」と言われ、明治天皇が京都へ向かう折り、ここで休憩されました。現在は南陽神社の北側に門だけを残し、敷地は南陽中学になっている。また、熱田から下之一色に至るまでの間に三十三観音があるが、これは三十三に区切られた開墾地の守護仏として祭られたものである。(ぶらっと中村・舟橋武志著)

港区南陽・勘兵衛屋敷の門
港区百曲り街道・三十三観音堂