日本霊異記 道場法師の鬼退治
昔、欽明天皇の第二皇子で父に継いで第三十代の天皇(すめらみこと)となった、かの女帝推古天皇の異母兄にしてその夫たる敏達天皇、磐余(いわれ)の訳語田(をさだ)の宮から国を治められた渟名倉太玉敷(ぬなくらふとたましき)の命の御世のことであった。
 尾張国阿育知郡片把(おわりのくにあゆちのこおりかたわ)の里に一人の農夫(たつくるをのこ)がいた。農夫が作り上げた田に水を引こうとしていた時、小雨が降ってきた。農夫は仕方なさそうに天を見上げると、雲は厚いが流れは速かった。そこでひとまず木陰で休むことにした。鉄製の杖をついて田の外れの木の下へ入ると、まるでそれを待っていたかのように雷が轟音を辺りに響かせた。農夫は急なことで驚き慌てて、しりもちをつくように気の根本に腰を落とすと、手にした鉄杖を振り上げて、頭を抱えた。
 それとほとんど同時であった。閃光が走り、再び大気を切り裂く轟音が響いたかと思うと電光が農夫の先まで立っていた辺りに落ちてきた。しかもその光は地に吸われることなく、そのまま何かの形をとろうとしていた。よく見ればそれは小さな子供のようであった。農夫はその姿、まるで人に取り入ろうとするかのように人の姿をとった光が恐ろしくなり、鉄杖をめくらに振り回して、光を遠ざけようとした。
 すると電(かみなり)はしゃがれてはいたものの十分聞き取れる、人の言葉を発した。
 「私をどうか殺さないでください。そうすればきっとあなたのご恩に報いますから」
 という、人に媚びるような響きのある言葉であった。
 農夫は、人の言葉にふと落ち着きを取り戻して、杖を振り回すのをやめてよくよく電を見た。それはすっかり可愛らしい愛嬌のある子供であった。
 「お前さまはどんな恩返しをしてくださるというのかね」
 農夫はその子供の愛らしさに助けてあげたいと思うようになっていた。農夫には子供がまだいなかったのだった。
 「そうですねえ」
 電はまるで農夫の表情をうかがうようにしながら答えた。
 「私をお助けくださるのでしたら、あなたのために、お子さんを授けてさしあげましょうか。それで恩返しとしたいと思いますがどうでしょうか」
 そのような答えをどこかで期待していた農夫に否やがあろうはずはなかった。
 「それは願ってもない。そうとなれば、何でもしよう。どうすればよいかね」
 農夫の手放しの言葉に電は満面の笑みを、無邪気そうな笑みを浮かべると説明し始めた。
 「それでは、楠の木で船を作って、その中に水をいっぱいに入れ、そこに竹の葉を浮かべてください」
 熱心に耳を傾けた農夫は、一瞬考えをまとめようとするかのように瞑目すると、わかったとうなずき、早速作業を始めた。近くの林に入り、楠木を切り出し、枝を落とすと、それを刳り貫いて、子供なら寝ることもできるほどの船を作った。そして田の水取り口あたりから水を汲んで、船を水で満たし、そこに家の裏手の竹林から取ってきた葉を浮かべた。
 準備ができると、じっと笑顔を浮かべたまま見守っていた電が近付いてきて、農夫に声をかけた。
 「ありがとうございます。これで天に帰る事ができます。ただ、ちょっと危ないので少し離れていてください」
 そう言うと、農夫が適当な距離まで離れるのを見てから、船に手を入れた。すると途端に霧が湧き出し、辺りは白一色に覆われた。農夫の耳にバリバリと大気を裂くような轟音が聞こえた。霧が晴れるともうそこに電の姿はなく、割れて少し端の焦げたような楠の船だけが残っていた。
 農夫は俄かに恐ろしくなり、震える体を抱えるように家へと走ったのだった。
 その日農夫の妻は、恐ろしい金色に輝く龍の夢を見た。
 そしてしばらくすると子を生んだ。
 がその子は恐ろしいことに頭に蛇をぐるぐると巻きつけ、その首と尾を背に垂らした姿で生まれたのだった。

 恐ろしい姿で生まれたとは言え、蛇はすぐに消え失せ、後には首から背中にかけて青い痣のような物が残ってはいたが、見た目にはまったく普通の子供であったし、待望の我が子であった。幾分畏れがないわけでもなかったが、十分な愛情を注いで育てたのだった。
 そうしてその子もしだいに成長し、年も十余りとなった頃のことである。朝廷に非常に力の強い者がいるという噂が聞こえてきた。少子はそれを聞くと、背中が疼くようにむず痒くなり、血がたぎるような感覚にとらわれて居ても立ってもいられず、その力をせめて一目なりと見てみたいものと思い、親にも告げず勇んで都へと向かったのだった。
 都へと入るのは容易であったが、さすがに天下の都である。いかに有名な人物とは言え庶民のいるようなところへそうそう歩きまわっていてくれるわけもなく、素性も知れぬ少子がそう簡単に会えるはずもない。朝廷の場所はただ大通りを真直ぐに抜けていった先なので、すぐに知れたが、簡単に入れるわけもない。少子は途方にくれながら、とぼとぼと歩いていた。
 と、少子の目に寺の門が入った。都の東の外れであった。
 門には元興寺と書かれてあった。これは仏教への信仰篤い蘇我馬子によって創建されつつあった法興寺あるいは飛鳥寺とも呼ばれる寺であった。この時代まだ仏教は新興宗教のようなものであった。
 少子はその奇妙なたたずまいに妙に惹かれるものを感じた。その感覚のままに門をくぐって、波打つ甍に鎧われたようないかめしくも粛然としたたたずまいに、懐かしさのようなものを感じながらただ、その正面に立つ堂を眺めていた。
 そこへ横合いから声がかけられた。
 「小子、いかがされたのかな。何か御用かね」
 坊主頭の温和な顔をした男であった。細身で力はなさそうだが、その心はその外見以上に強いことが感じられた。穏やかなまるで石か木のような姿の内に、強い光を秘めているようだった。
 「いえ、その美しいと思い眺めていたのです」
 少子はその光に圧されるようにうつむきながら呟くように言った。
 「そうですか。美しいと感じましたか」
 そう言って笑顔で少子の顔をのぞきこむように見た、坊主は続けていった。
 「どうです、中も見ていきませんか」
 言われるままに少子は堂の中へと上がった。途端、全身に電流が走るような衝撃を覚えたのだった。
 そこには柔和な笑みをたたえた美しい仏が立っていた。
 背中がむず痒いような違和感を訴えていたが、どうしても少子はその仏から目が離せなかった。心を完全に奪われていた。
 坊主はその少子の様子に満足そうにうなずくと、優しく声をかけた。
 「どうかね、しばらくここに居る気はないかね。よかったらここでしばらく共に暮らさないかね」
 少子は仏から目を離すこともできないまま、肯いていた。

 少子が坊主の勧めるままに元興寺に棲みついてから、数週間が過ぎていった。
 そんなある日、ふとしたことから少子は例の強力の男の噂を耳した。
 するとこの数週間、全く感じたことのなかった血のたぎりを感じ、また背中が熱く脈打ち始めたのだった。そうなるともう少子はいてもたってもいられなくなった。
 すぐにその噂の通りに、着の身着のままで、大宮の東北の角にあるという別院へと向かった。確かにそこに立派な別院が建っていた。
 しかしそれほどの高貴な邸に勝手に入っていくわけにはいかない。そこでしばらく様子を見ることにした。じっと垣の端で見ていると、その邸から立派な装束の体格のいい男が出てきた。そして少子の見守る中、男はその東北の隅にあった八尺四方ほどの大岩の所へとゆっくりと歩み寄っていった。そしておもむろにその岩に手をかけると邸の方へと放り投げたのだった。岩は邸の門のところへと飛んでいき、ぴったりと門を閉ざしてしまった。この大岩をどけない限り邸には入れないようにしてしまったのだ。そうしておいて、男は平然と大宮へと歩いて行ってしまった。
 少子はすぐに、この噂の強力の王こそ故郷で耳にした朝廷にいる力の強い者に違いないと確信した。
 そこで少子は浮き立つ心を押さえ、背中の疼きに堪えながら、そのまま夜を待ち、邸に仕える者もすべて寝静まり、見る人もいないことを確認した後、音を立てないように注意して、垣を飛び越えて邸に侵入した。そして真直ぐに、再び東北隅に戻された岩のところへと立った。しばらく岩を眺め、そして邸の門を見遣ってから、一つうなずくと、おもむろに岩を抱え上げた。背中が妙に熱を持ったように火照っている。まるでそこから力が湧いてくるようだった。少子はそのまま庭の方を見て、見当をつけると無造作に投げやった。その岩は門までの距離より一尺ばかりも先と思われる距離まで、空気を押しのけて飛んだ。その様子にふうと一息つくと、少子は何事も無かったかのように、再び垣を飛び越えて寺へと帰った。

翌朝、驚いたのは王であった。すぐにそれが自分よりも遠くに投げられていることに気付いたのだ。王はすぐに袖をまくると手を打ち気合を入れると、岩を抱えて気合一声放り投げた。しかし、岩は先の時と同じ距離しか飛ばなかった。これは何かの間違いであろうと、釈然としないものを感じながらも、そう言い聞かせて、王はともかくも宮へと向かった。
 その夜、再び忍び込んだ少子は岩が投げ戻されているのを見て、再び岩に手をかけた。そしてうんとふんばって放り投げた。岩はまたも空気を押しのけて飛び、今度はさらに二尺ばかりも先まで飛んでいったのだった。少子は満足そうに笑みを浮かべると、また何事も無かったように寺へと戻っていった。
 翌朝、もうこれは夢でも幻でもなかった。王は得たいの知れない恐怖を感じつつも、負けては名折れとばかりに対抗心も強く湧き、さらに気合を入れなおし、今度は体をほぐし、十分に体を温めてから、岩と取り組んだ。そして猛烈な掛け声とともに岩を放り投げる。しかし岩は変らず、先と同じ程度の距離しか飛んではくれなかった。そうなるともう、王は自分では勝てないことを悟った。しかし相手がわからないのはすっきりしない。そこで、一晩庭に潜んで正体を見極めてやることにした。
 その夜、王の見守る中、また少子が忍び込んできた。月明かり故にはっきりとは見えないが、見たところ全くの子供である。しかしその少子はそのまま何気なく岩に寄って行く。そして軽く腕を振ると、岩をいとも簡単に持ち上げた。そして足を踏ん張ると気合と共に放り投げた。岩はまたしても空気を押しのけて飛んで行き、今度は三尺ほども先まで飛んだのだった。王は我が目を疑った。少子は岩を見遣り、満足そうに肯くと、去っていこうとする。その足元にははっきりと深さ三寸ほどの足跡がついていた。もうこの子供が岩を投げたことは疑いようもなかった。王はすぐに隠れていたところから出ると、少子を捕まえようと駆け寄った。少子も王に気付くと、急速に背中の熱も治まり、ことの重大さを悟った。これはまずいと慌てて逃げ出した。王は必死になって追っかけた。捕まえてどうこうしようという気持ちがあったわけではない。ただ自分より強い童に興味があった。どんな者か見たかった。それだけだった。少子は罪悪感と恐ろしさを感じて必死に逃げた。少子が墻をくぐって逃げれば、王は墻を飛び越えて追ってきた。少子はすばしっこく逃げまわった。王は追っているうちにふと、寒さを感じた。もしかしたらこの子供は妖怪の類いかもしれないと思った。しかも相手は自分より確かに力がある。体に震えが走った。追う足が鈍った。少子と王の距離が開いた。逃げるものをわざわざ追うこともないと王は自分に言い聞かせた。そうして、王は捕まえるのを諦めた。少子は無事に寺に逃げ帰ったのだった。
 こうして少子は都一の強力の王に力比べで勝ったのだった。

      二、 帰依

 少子はそのまま元興寺に居つき、寺の童子となっていた。
 そうしてしばらくの時が過ぎた頃である。その寺の鐘堂で夜毎に人が死ぬという事件が起きた。時には参拝に訪れたものもいたし、下働きをしている童子や修行者として身を寄せている優婆塞(うばそく)、さらには僧達にまで被害は及んでいた。まだ仏の道もこの国に来て間がない頃のことである。死を招くという噂は排斥にも繋がりかねない深刻な事態であった。そして何より人を救済するはずの仏の道の本拠たる寺で毎夜人が死ぬということはあってはならない事であった。
 まだ仏の道のなんたるかは知る由もなかったが、童子となった電の子は自分を拾ってくれた坊主、法師に恩も感じていたし、その説く教えに感化されてもいた。そこで童子は法師に申し出たのだった。
 「俺がこの人が死ぬ災いを止めます」
 法師は一瞬驚いた顔をしてから、童子の顔をまじまじと見つめた。その場に居合わせた僧達がこの怪力の童子ならやってくれようと、どこかすがれるものなら何でも構わないというような意も感じられる賛意の声をあげた。
 しかし法師はそんな僧達の声には耳をかさず、じっと童子を見つめた。
 「任せてください」
 童子が法師だけを見つめてもう一度言った。
 その瞳を見つめ、法師はようやくうなずいた。
 「わかった。やってみなさい」
 法師の言葉に童子も笑顔でうなずいた。
 その夜、童子の指示のもとで、鐘堂の四隅に燈(ひ)を設けた。そしてそれぞれの燈の傍らに一人ずつ童子をつけた。
 「俺が鬼を捕まえたら、みんなは一斉に燈の覆いを取ってくれ」
 と童子たちに言いつけていた。
 そうしておいて自らは鐘堂の戸口の正面にどっかと腰を下ろした。
 夜半頃、戸口を開けて鬼がやってきた。しかし戸口を開き中を覗き見た時らんらんとして己を睨む童子の目を見て、慌てて帰って行ってしまった。
 しかしそれで引き下がってしまったわけではなかった。
 燈の元にいる童子たちが船を漕ぎ始めた夜も更け、朝も近付いてきた頃である。再び、鬼が戸口を開けた。先ほどのように己を睨む眼のないことを確認すると、おもむろに入ってきた。
 その瞬間であった。それまで静かに目を閉じ、まるで置物のようにじっとしていた童子がそのらんらんとした目を見開き、鬼の髪をむんずと捕まえた。
 鬼は慌てて暴れ、逃げ出そうと外ヘと引張るが、童子も負けじと内へ引張った。
 その物音に四隅の童子たちも飛び起きたが、そのあまりの凄まじい光景に怖じ懼れ、かといって入り口付近で両者が引き合っているため逃げるに逃げられず、慌て惑った。誰一人として自分の役目を思い出す者はいなかった。それほどに恐ろしい光景だった。
 童子は四人に声をかけたが、四人はただ口をぱくぱくとさせて後退りするだけだった。
 しかたなく童子は大きく息を吸い込むと丹田に溜め込んだ。背中がまた熱くなる。
 鬼がまるで怯えたようにいっそう激しく暴れたが、童子は構わず引張った。そしてそのまま隅まで引いていき、片手で踏ん張りながら一つ一つ燈の覆いを取り始めた。
 いつしか明けも間もない晨朝になっていた。
 童子が最後の覆いを取ろうと手を伸ばした時であった。ぶちぶちという凄い音と共に手に掛かる力が消えた。おかげで童子はつんのめり、危うく燈に突っ込むところをかろうじて身をかわして、しかし壁に激突することとなった。その振動で、微かに鐘が鳴る。覆いを取るために集められた四人は最も離れた隅に固まって、身を寄せ合って震えていた。
 童子が身を起こした時にはもう鬼の姿はなかった。
 銀色に光る髪の毛だけが童子の手に残っていた。鬼は自分の髪を引き剥がすようにして逃げ出していたのだった。
 しかしよく見れば床に点々と血の跡が残っている。
 すっかり明けた頃、童子は法師らと共にその血の跡を追って行った。
 すると寺から程近い、ある衢(ちまた)に至った。血はその辻の傍らにある小さな石碑の所で消えていた。
 法師の話に寄れば、そこはかつて今寺となっている地に棲んでいた豪族の墓であるということだった。その豪族は権勢にまかせ様々な悪事を行い、周囲の者たちも困苦していたという。それがある時、突如として落ちた、まさに晴天の霹靂に寄って死んだという。法師によれば仏罰だという、その死によって荒れ屋となっていた地に建立されたのが今の寺だということであった。おそらくその豪族が仏に怨みを抱き讎をなしていたのだろう。
 法師らは墓で法会をなし、二度と現れぬよう祭ってやった。
 童子の引き抜いた頭髪は、今なお宝として元興寺に納められている。

 鬼退治の活躍などによってより信心を深め、周囲にも認められた童子は、いつしか優婆塞となっていた。
 優婆塞は寺領に水を引き田を作り、米を作っていた。
 しかし夏の日照りの盛りに突然、水が流れてこなくなってしまった。童子を遣って調べると、川より田に水を引き入れる所にある水門が塞がれていた。どうやら寺の近隣に住む豪族の王(きみ)たちの仕業らしかった。時はまだ仏の道も広く受け入れられることはなく、異国の怪しい教え、国を乱すものと考えるものも少なくない時代であった。一部の先見のある者たちによってもたらされたこの道を周囲のものが快く思わないこともよくあることであった。
 水は日に日に涸れていく。
 童子たちは豪族たちを恐れてどうすることもできなかった。
 そこでまたすでに寺の者となった優婆塞が老境を迎えている法師に申し出た。
 「わたしが田の水を引いてきましょう」
 すぐに僧侶たちはうなずき合い、賛意の声を上げたが、法師は難しい顔をした。
 「確かにおまえならやってのけるだろう。だが、今度ばかりはおまえの力が問題を大きくすることにもなりかねない」
 法師の言葉に、僧達も急に不安を覚えた。優婆塞の力があれば、どんな抵抗があろうと跳ね返すことができるだろうが、仏法を広めることに反対している豪族たちと直接力でやりあうことになったら、むこうの思う壺である。もし相手に怪我でもさせようものなら、これ幸いと優婆塞は死刑にされ、寺も取り潰しとなるだろう。事は政治的でもあるのだ。いかな強力でも権勢を倒すことはできない。
 「ここは馬子様にお願い致すしかあるまい」
 僧達も深刻な顔で一様にうなずいた。
 しかし、優婆塞はまるでそんな僧侶たちの考えなど知らぬかのようにけろっとして言った。
 「何も馬子様を煩わせる必要はありません。わたしにお任せください」
 法師は優婆塞のその穢れを知らぬかのような澄み切った瞳を見つめた。
 仏の道を学んでいる優婆塞がしがらみを知らぬはずもない。決して無鉄砲な愚か者ではない。法師は優婆塞との出会いから今までのことを思った。
 僧侶たちは法師の答えを緊張して待っている。本当の気持ちとしては優婆塞に手当たりしだいに無体な豪族たちを倒してしまって欲しい。しかしそうするわけにはいかぬのもわかっている。法師のいうように馬子様に頼るのがもっともよい道とも思われる。それでも優婆塞に期待したい、何かやってくれるのではないかと思わずにはいられない。それで僧達はただ息を飲んで二人を見つめていた。
 長い沈黙の寸刻の後、法師が溜息をついて言った。
 「豪族たちと直接やりあうことはならんぞ」
 僧達は止めたままの息を吐き出したものかどうか迷った。
 「わかってます。きっと豪族たちには諦めさせて見せましょう」
 優婆塞は屈託のない笑顔で答えた。
 その満面輝くような笑みを見て、ようやく僧達も息を吐き出し笑顔を見せたのだった。
 優婆塞は法師の許しが出ると、早速対処に取りかかった。
 十人がかりでようやく持ちあがるほどの鋤を作らせた。大きさはひとまわりかふたまわり程大きい程度だが、柄まで鉄で作らせた鋤であった。
 その鋤を手に、まるで木切れでも持つかのように杖にしながら水門まで悠然とやってくると、何気なく辺りを見回し、無造作に水門を取ってしまった。そしてふっと鋤を振り上げ、一瞬まるで見せつけるようにそこで矯め、一気に振り下ろし、水門の代わりに突き立てた。優婆塞は自分でした事を確認するかのようにじっくり眺め、軽くうなずくと帰っていった。

その様子を見ていた王達の侍人たちは慌てて、それぞれの主のもとに走っていった。
 しかし王達は侍人たちの言葉を信じようとはしなかった。が、ともかくも一人でやったにせよ十人がかりでやったにせよ、もう一度妨害してやろうということになった。
 水門に集まると、確かに侍人の言った通り鋤が突き立ててある。王の中で強力で知られる男がそれに手をかけ、引き抜こうと力を込めた。しかしそれはびくともしない。
 そこで王達はどっと笑った。やはり侍人たちは見間違えておったと語り合った。この王にできないことをできるものなどいるわけがないと笑ったのだった。
 が、当の強力の王はどうにも笑えなかった。何とはなしに不安を感じていた。すでに昔のこととなってしまったが、かつて一度、当時はあやかしと思ったが、小さな子供に力比べで負けたことを思い出していたのだ。まさかとは思うが、不安は消えなかった。
 そんな強力の王の気持ちは知らず、他の王達は人を使って鋤を抜き捨てさせ、再び水門を据えて塞がせた。
 また田は涸れ始めた。
 そこで再び優婆塞は水門へと向かった。
 塞がれた水門を見つめ、腕を組んだ優婆塞はしばらく考え、辺りを見回して軽くうなずいた。
 水門を開けてまず田に水が流れるようにする。そして土手の上の茂みの前にでんと居座っている山のような岩の前まで歩いていった。持ち上げるには百人からの力がいるかという大岩である。その岩に優婆塞は腕をまわした。荒縄のような筋肉がはち切れんばかりに盛り上がる。すでに痣も消え失せてしまった背中が変わらず熱くなるのを感じていた。
 岩は身にまとった苔の衣を振り払うかのようにして持ちあがる。優婆塞は岩を抱え上げたまま、ゆっくり川へと下りていった。そして水門のすぐ近く、下流側に豪快な水飛沫と共に落とし込んだのだった。ずっと下流には豪族たちの領地とする田に水を取り入れる水門などもあるはずである。しかし大岩がすっかり水をせき止めてることとなった。
 優婆塞はふうっと息をつき、全身に吹き出した汗を拭うと、満足そうに笑顔でうなずき寺へと戻っていった。
 王達の侍人たちは再び大慌てでそれぞれの主のもとへと走った。侍人たちは説明ももどかしく、興奮のあまり息を吐くばかりで、なかなか言葉もでなかった。そのためひどく時間はかかったものの、それでもどうにか王達にも話は通じた。またもなかなか信じようとはしなかったが、さすがに笑うものは一人もいなかった。
 ともかくも王達は、どうにかしなければ自分達の田が干上がることでもあり、水門のところまで出向いていくこととした。
 またも侍人たちの話の通り大岩が川を堰き止めていた。確かに動かすには百人は必要だろうかという巨大な岩であった。が、土手にはその岩を引き摺った跡もなければ、転がした跡もない。かわりにまるで子供のような小さな足跡が深々と残っていた。
 それを見た強力の王が身震いした。そしてかつて自分が力比べで岩を投げ、子供に負けたことがある話をしたのだった。その者が元興寺にいるにせよ、それがあやかしにせよ、明らかに分が悪い。力では決して敵うまいと告げた。
 王達は信じようとはしなかったが、否定もできず、ただ背中に冷たいものを感じた。
 すぐさま人を集めて岩をどけると、逃げる様にそれぞれの邸に帰り、王達は二度と寺に手は出さなくなった。
 こうして寺の田は豊かな実りを得ることができたのだった。
 数年の後、これらの功徳が認められ、優婆塞は出家得度した。法名は道場法師とされ、後々まで元興寺に住み続けたのだった。
 元興寺の道場法師の噂は尾張にも聞こえ、幼き頃より消息の知れなくなっていた息子を心配していた、農夫夫婦もようやく胸を撫で下ろすことができ、年老いた夫婦も元興寺に詣で、親子の再会を果たしたという。