稲生街道は、浅間町から江川端を北上し、浄心寺・西社会教育センター・を更に北上し、庄内通りの東を北上すると庄内川につきあたる。庄内川には渡し船があった。丹羽郡古知野・西春・岩倉方面から熱田の宮へ行く道程であった。
安性寺
稲生原合戦の際焼失。もと名古屋城深井堀の傍に観音堂があり、当時は城内のため、毎年7月10日の朝に限って参詣が許された。
妙本寺
寺宝の鰐口、日陣筆題目が有名。寺前に丹羽屋敷があった。
伊奴神社(いぬじんじゃ)
創建は天武2年(673)。このあたりでは最古の神社。延喜式内社。主神は、伊奴姫命、大年命、須佐之男命の三神。社伝によれば、天武天皇の御世にここで稲を取らせた事があり、それがこの社名の由来と伝承されている。境内にシャシャンポ(ツツジ科)の大樹があり、昭和55年に緑地保全地区に指定されている。
庚申塚(稲生原古戦場跡)
織田信長は、その弟・信行側の柴田勝家、林美作などと、現在の名塚町、稲生町一帯で戦った。信長がこの稲生ヶ原の合戦に勝利し、尾張統一に大きく踏み出した。弘治2年(1556)桶狭間の合戦の4年前のことである。その後、信行は清洲城内にて殺された。庚申塚に、この合戦の戦死者の霊を祭ったという。本来、このあたりにあった庚申信仰の名残でもある。庚申の妻問いの説話がある。
名塚白山社
稲生原合戦のとき、信長方の佐久間大学がたてこもった城跡と伝えられる。
新福寺
曹洞宗。寺伝によれば、聖武天皇の天平年間に勅命により行基が創建したという大寺であった。元は庄内川堤内元屋敷にあったが、慶長19年(1614)に上ノ切へ移転し、その後現在地に移転。
掘越白山社
白山信仰はこの地方に多く、女神・菊理媛を祭神としている。
寶琳寺
曹洞宗。元は庄内川堤内元屋敷にあったが、慶長19年(1614)に上ノ切へ移転し、その後現在地に移転。

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