熱田と佐屋を結ぶ佐屋街道の最初の宿場が岩塚である。佐屋から桑名までは船で下るが、「七里の渡し」から海路を行くより穏やかで安全なため女性や子連れの旅人に好まれた。道は宿の西側で庄内川にぶつかり、対岸へは「万場の渡し」で渡ることになる。
城屋敷八幡社(稲葉地城跡)
神明社の東南あたりが城跡で現在も城主の子孫が住んでいる。東西40間、南北56間、四方に掘があった。
「尾張志」に初代織田信光は信長の叔父にあたり、二代玄蕃充、三代与三郎は桶狭間の戦いで戦死。四代小藤次は、本能寺の変にて戦死している。その後、廃城となった。城の西南に建てられた凌雲寺は、信長が幼少のとき習字の手習いなどを学んだといわれている。
岩塚七所神社と御田神社
万場大橋の東北下にあります。尾張三大奇祭の一つで、旧暦の1月17日、笹竹を若衆が担いで庄内川に入り、竹の折れる方向でその年の豊作を占うという祭りです。市の無形民族文化財に指定されています。又この境内には周囲に濠を巡らせているものと拝殿の西にあるのと合わせて3つの古墳があり、中村区であるのはここだけであり、岩塚の地名の由来ともなっている。
「日本武尊腰掛け岩」この岩と古墳である塚をもって「岩塚」の地名とする。

元は、この御田神社がメインであったはず。上記の「きねこさ祭」もこの社の行事で、田植えに備えて、種籾を準備する行為が神事となった。

七所社は本社、八剣宮、高蔵結御子神社、御田神社、日割御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社の熱田七神を勧請したことによる。

岩塚薬師:本尊は薬師如来。ずいぶんお洒落な本堂で、門前西の石碑もほほえましい。

高野宮社:伊勢神宮の荘園「一楊庄御厨旧地」。前田利家の祖父の弟で下之一色城主・前田与十郎に祈願所として庇護された。
天正12年(1584)の小牧合戦の時、与十郎は徳川家康・織田信雄連合に属していたが、伊勢の滝川一益の誘いにのり秀吉側に寝返り、蟹江城を奪った。その後、家康・信雄軍に攻められ殺され、城は徹底的に破壊された。わずかに子の長種は利家をたより加賀に落ちている。
津島神社:

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