熱田台地と那古野台地の西側を流れる「堀川」は、名古屋城下と熱田の海を結ぶ運河として生まれた。名古屋城の西の「辰の口」から広井・日置・古渡と下って熱田の西で海に注いだ。この堀川の開削には徳川家康の命で慶長十五年、福島正則が普請奉行として工事に当った。堀川は貨客運送に利用され、客を乗せた舟は名古屋城近くの朝日橋までのぼって来た。
洲崎橋から
御船方役屋敷跡
尾張藩の水軍の司令官であった千賀氏の屋敷、すなわち御舟方屋敷がこの堀川左岸にあった。その配下の水主(かこ:水夫)123人が付近の両岸に住み着いていたことから、水主町という名が残った。軍船の多くは堀川下流、現在の熱田区白鳥庭園の前身である白鳥貯木場に当時あった御船蔵に係留されていた。
洲崎神社
新洲崎橋の東袂に鎮座する洲崎神社。「当神社は昔広井天王牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、その洲崎に鎮座ということから社名となった。名古屋城築城以前は栄一丁目全域が境内地であり堀川西八角堂前に広井天王御手洗の石柱があった。宝永6年(1709)藩主徳川綱誠卿より神輿が奉納され、享保16年(1731)名古屋の繁栄を願う藩主徳川宗春の命により川祭が盛大になり、堀川には桟敷をかけ当時の城下二代祭として非常な賑わいで明治初年まで続けられた」
洲崎神社の堀川端に天王崎港があったほか、広井城跡:天文年中迄城主中村氏、以後社家が広井城を支配。三霊神社遺跡:徳川慶勝建立。堀川初開削の地:慶長十五年此の地にて祈願祭をし、開削。

岩井橋から
大須の白山社:清洲越しでこの地に遷座

日置橋から:黄色の欄干が目に付く。近く古社「日置神社」がある。

10月4日の中日新聞夕刊より
名古屋市は中区松原にある「雲龍神社」の樹齢千年と伝わる「大くすのき」を伐採し、土地売却を町内に通達。
この地は、戦災復興の区画整理で取り残され、市の保留地となり現在に至る。当時の担当者は「大くすのき」に敬意を表し、残す見識を見せたのだと思います。それに比べ、現在の名古屋市の姿勢は語るに落ちる暴挙にでようとしている。市内に残る数少ない巨木を伐採するような発想はどこを押したら出てくるのか?名古屋は文化不毛の地と言われる由縁が露呈したと思われます。何が「堀川再生事業」だと聞いて呆れます。歴史の証人、戦災の焼け跡も残る千年の記憶を、無知で狭量な役人の裁量に任せてなるものですか。世界から笑われる市民となるのはごめんです。愛知万博の理念はやはりお題目でしかないのですね。こんなことでは、世界からコンセンサスが得られず、大失敗に終るのは見えている。
「大くすのき」伐採は断じて許すまじ。
大樟(雲龍)神社
日置城趾、城主は織田丹波守寛定、掃部助忠寛父子と伝わる。規模等は不明だが、古渡城の北西に位置して丘陵上に築かれているので、西方を広く見渡せる要害の地であったという。大楠だけの神社だが名古屋市の天然記念物、惜しむらくは枯れている。

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