竜泉寺は尾張四観音の一つで伝教大師の創建という。多羅々池出現の銅造馬頭観音を本尊に、熱田神宮の奥の院と称する古刹である。
戦国地代の、小牧山・長久手の合戦に秀吉ここに陣をしき、堂宇に放火し焼失させた。勝敗のポイントとなった徳川方の重要な拠点であった。
多羅々池伝説
多羅々はタタラの訛りである。たたらは、踏鞴で、大きなフイゴである。名称由来は不詳であるが、この寺が、竜王が一夜のうちに造るとの伝説(沙石集)などの造営に関する言い伝えからか、または昔、この辺りにかぬち(鍛冶)、金属精錬の人々が住んでいたからのことであろう。
この池は本尊の馬頭観音の湧出した場所で、当時、熱田神宮に参籠していた伝教大師を訪れた竜女が「わが苦患を救い給われ。礼に旱魃には必ず甘雨を降らさん」と誓った。のち弘法大師が熱田の神宮寺で大日如来の供養を修めていたとき、一人の童子が毎日くるのを不信に思い、跡をつけたところ、童子がこの池に入るをみて竜神であると悟った。
仁王門、木造地蔵菩薩立像は重要文化財である。その他什宝多く、円空の延宝四年(1676)作銘のある馬頭観音はじめ仏像数百体を蔵す。また、ここの節分には春駒を門前寺内で頒布する。
龍泉寺城  吉根字松ヶ洞竜泉寺のある場所が城跡である。
弘治二年(1556年)織田信行が築く。小牧・長久手の戦いの際、秀吉が築いたという「一夜堀」の跡が残っており、現在、鉄筋の城が建っている。要害の地で、庄内川から小牧・美濃方面まで見渡せる。

天正12(1584)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は家康と戦うため西へ、27日犬山城(愛知県犬山市)へ入る。一方家康は小牧山(愛知県小牧市)へ陣を敷き、清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、小幡城を修復し本多広孝を配した。
両軍の勢力は秀吉軍15万余人、対する家康軍は6万余人。しかし家康はこの数の劣性を補うに十分の根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者を擁していた。
秀吉軍池田信輝は家康が小牧山に陣している隙に家康の本拠地三河を攻め、家康を孤立する作戦を進言、4月8日夜半、池田信輝、森長可、堀秀政、三好秀次らに率いられた軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発、庄内川龍泉寺下、上ノ瀬、中ノ瀬、下ノ瀬あたりを渡河。庄内川のこの辺りは浅瀬が多く、又一段高い段丘上に位置する龍泉寺城、小幡城辺りからは一望に見下ろせます。夜間の渡河作戦、小幡城の本多広孝はいち早く情報を入手。西軍は小幡城を先を急ぐ余りか、兵士の消耗を危惧したためか攻撃することなく素通り。この報を手にした家康隊は直ちに小幡城に夜間行軍にて移動。西軍を分割する為西軍三好隊を白山林(守山区本地が丘、尾張旭市吉岡町、緑町一帯)に追撃。油断を付かれた三好軍は壊滅状態になり9日午前4時頃に始まった戦いは約1時間で終結、三好軍は長久手方面へ敗走。敗戦の報を聞いた池田信輝、森長可は直ちに仏が根(愛知県長久手町)に陣を敷くが追走した東軍井伊直正軍の鉄砲攻撃を受け信輝、長可は討ち死。戦いはお昼頃には終結したと言われている。
夕刻4時頃家康隊は小幡城に帰参。このころ秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していたが日が暮れたので龍泉寺城に入る。
龍泉寺城と小幡城の距離は軍馬の嘶きも聞こえるかの2km余り。この時秀吉隊は家康が小幡城に居ることを確認するが、明朝の総攻撃を命じすぐさまの攻撃に躊躇。この時秀吉の大軍が戦帰りで疲れている家康軍を即攻撃していたら歴史はどう変わっていたか分からない。一方小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認すると素早く、そして静粛にわずかな兵を残し夜陰に紛れ庄内川を渡河し小牧城に帰還してしまう。明朝この事に気づいた秀吉は「罠にももちにもかけることができない。敵ながら天晴れと」と言ったとか。そして秀吉本隊も龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げていった。まさに小幡城は家康の命を救った城でしょう。