高針界隈  天白川の上流、植田川沿いに開けた地域で、縄文・弥生を通して人が住んだ。高針集落南に東西にのびる通りは、東はご城下の建中寺、蝮ヶ池、陶森からみて「高針街道」、東は信州へ通じる「中馬街道」と呼ばれた塩街道である。「おまんと」の馬具を保存する高牟神社や諸病に効く名灸で知られる東勝寺、10世紀に創始されたといわれる蓮教寺など名刹があり、市内最大の面積を持つ大池・牧野池の豊かな自然が楽しめます。

上社下社一社  昔、旱魃の時、武内宿祢が村をとおりがかり「白鷹の羽で作った白い矢である。これを御神体として水神様を祭れ。」といって村人に渡した。早速村人たちは祠を建て、その矢を祭り、一心に祈ると清水が湧き出して田畑を潤した。以後、この水は枯れることがなかったという。この矢を祭った祠を「矢白神社」と呼び、村の名もいつのまにか「ヤシロ村」と呼ばれるようになり上社、下社、一社などの地名はこの名前に由来する。そしてかつての「矢白神社」は現在は「貴船神社」と呼ばれている。
 織田家重臣・柴田勝家の誕生地である下社城跡・明徳寺がある。勝家は亨禄3年(1530年)ここで生まれたとされる。

香流川周辺  矢田川の上流、香流川に開けた地域で、高針とは文化の成り立ちが異なる。
 この村には、大昔から猪が寝ているような形をした大きな石がふたつあった。「牡石(おいし)」(猪子石神社)と「牝石(めいし)」(大石神社)。そのことから猪子石村とよばれるようなった。
 鎮守の森・和示良(かにら)神社、戦国時代の土豪・加藤勘三郎の墓が残る了玄院やゆかりの月心寺などがある。
 猪子石から藤森への道は、西向きはご城下・出来町から茶屋ヶ坂を通る「山口街道」と呼ばれ、東向きは「石作(やざこ)道」で、農産物が運ばれた。

「おまんと」と「棒の手」 おまんと(御馬塔)は馬標(だし)と呼ばれるお札や御幣をたてた豪華な馬具で飾りたてた馬を、神馬として神社に奉納する神事で、尾張・西三河に残る祭礼です。「棒の手」は400年前から伝わる民間武術で、「おまんと」の警護隊として神社に参詣したあとに奉納されました。